【明神崎(みょうじんざき)】
地元の人たちは「明神ざい」と呼んでいます。岬の小高い所に漁船の安全を祈願して明神様が祀られていました。
昭和になって大房が軍事基地となったために引っ越し、現在では北浜海岸にあります。
【養殖イケス】
富浦漁協の経営する栽培漁業で、マダイやハマチなどの養殖をしています。デッキにあるのは釣り客のためのものです。
【サメ島】
釣りの名所です。岩の形がサメに似ているのか、或いは昔、サメが打ち上げられたことがあったのか、よくわかりません。小さな燈台が設置されています。
【石切場跡】
昭和のはじめまで切り出していました。【増間島】
「増間の馬鹿ばなし」でよく知られています。ここは大房の地層が観察できる大事な場所ですが、海からでなければ見ることができません。
大房の地層は向斜構造となっていて、北側では北から南に傾き、南側では南から北に傾いています。
【弁財天前】
崖の中ほどに弁財天の洞窟の入口がわずかに見えます、この海は弁財天前(べんてんめえ)と呼ばれて、昔から水難事故の多い危険な場所として知られています。ここは東京湾に突き出た位置で、潮の流れが速いのです。地元の人は知っていますから気をつけるのですが、よそから来た人は知らないために水難事故に遭うのです。海から眺める増間島
【ムッソ】
「向こうの磯」がつまったものと思われます。ここから館山湾となります。大房は北側、西側が荒々しく男性的ですが、南側はやさしく女性的な風景となります。その境目がこのムッソなのです。【茶屋下】
その昔、大房竜善院が栄えていた頃、参拝客のための茶店があり、その下の海ということです。船でお参りに来た人たちは、ここから上陸したものと思われます。【艦砲射撃標的跡 漓第2キャンプ場下 滷南繁船場脇】
標的跡は2ヵ所ありますが、ここはやや小さく、海からではないとよく見えません。ここは第2キャンプ場の真下になります。明治33年(1900年)、日露戦争を控えて日本海軍は世界最強のロシア艦隊と戦うための訓練にはげみました。
そのための艦砲射撃の演習場として大房岬が選ばれたのです。
しかし100年も過ぎた今では、砲弾跡の風化が激しく、次第に消えつつあります。
日本海海戦での日本海軍の活躍はめざましく、世界の海戦史上、稀にみる完璧な大勝利となりました。
その涙ぐましい訓練の跡が、ここ大房にあるのです。
【タイマイ】
芝生園地の下の海岸はタイマイと呼ばれています。ウミガメのタイマイのことです。タイマイは熱帯の海のカメですが、迷って打ち上げられたのでしょう。
【南繋船場(みなみけいせんば)】
要塞施設の資材の陸揚げに使われました。現在も大勢の人々に利用されている名所です。【オオトリ浜】
大きな鳥とは「ウミウ」のことです。ここの海で見かけることが多いことから名付けたのでしょう。ここは大房で一番長い砂浜で、景色もよいので人気のある場所です。
【でいそばな(でーそばな)】
出っ張った磯の鼻(端)ということでしょう。断崖の地層が南から北へと傾斜しているのがよく見えます。【がいのした(崖の下)】
崖の白く見える場所は、ウミウのねぐらです、白いのはフンなのです。【三つ磯】
小さな岩が三つ、潮が引くと顔を出します。もうここは西浜の海です。【雀島】
富浦には「雀島」が二つあります。一つは南無谷の雀島、もう一つがこの西浜の雀島です。昔はもっと高かったそうですが、関東大震災で崩れ落ちてしまいました。海の中には、その大きな岩が転がっています。
雀島周辺の海の深さは、東側の船形側が浅く、西側が深くなっています。雀島と崖のしたの間は潮の流れが早いです。
※この解説は全部を説明することはありません。時と場合によって選んで使ってください。
海上は特殊な環境です。長い話は禁物なのです。
雀島は見る角度によって形が様々に変る