潜水漁
房総で行われてきた潜水漁は、アワビやサザエ等の貝類や海藻などを対象として行われていますが、大きくは素潜りと潜水服と空気ポンプを使う器械潜水に分けることができます。
素潜り漁
邪馬台国について書かれていることで有名な『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には、「好んで魚鰒を捕らえ水深浅と無く皆沈没して之を取る」と記されており、邪馬台国の時代、弥生時代末期から古墳時代初期(AD.3世紀頃)には、盛んに素潜り漁が行われていたことがわかります。千葉県内でも、勝浦市こうもり穴洞穴遺跡の3世紀前後の土層からアワビの貝殻が多量に出土しており、その頃からアワビなどの素潜り漁が盛んに行われるようになっていたと考えられます
また、旧白浜町沢辺遺跡からは、古墳時代後期(AD.7世紀頃)のアワビオコシが出土しており、また、房総半島の対岸、相模国では享禄元年(1528)の史料に、アワビを採集する素潜りの技術者集団として「かつぎ衆(潜ぎ衆)」と呼ばれる人々がいたことが記されています。これらの史料は、房総や三浦半島では弥生時代末期以来、継続して素潜りによるアワビ漁が行われていたこと示しています。
さらに、江戸時代には、干しアワビが中国への重要な輸出品である俵物に含まれていたこともあり、アワビの経済的な価値が高まり、安房や上総の海岸の村々では、アワビは重要な換金産物となり、盛んに素潜りによるアワビ漁が行われていました。鴨川のはまなぶと浜波太村(鴨川市太海)では、江戸時代末期には周辺の村々の人々が「海士」として素潜りによるアワビ漁を行うだけではなく、伊豆国加茂郡(静岡県)からも「海士」を雇用し、アワビ漁を行っていたことが記録に残されています。
なお、現在、素潜り漁を行う人々を、海士(男性)・海女(女性)と書いて「アマ」と呼びますが、この「アマ」とは、古代では「海人」、つまり漁撈活動や海産物の生産、水運に従事する人々を指す言葉として使われていました。素潜り漁を行う人々に限定して「アマ」と呼ぶようになるのは、アワビの経済的な価値が高まる江戸時代頃からのようです。
素潜り漁に使われる道具
資料は、昭和初期から50年代にかけて使用されたもので、用途により以下のように分類できます。
潜水に使われる道具
水中メガネ→ヒトツメガネ、フタツメガネ
フウジ→メガネの側面に付けられたゴム製の袋で、この袋に空気を入れて潜水し、 潜水時に必要以上に水中メガネに水圧がかからないように調整する道具です。
貝などの採取に使われる道具
イソガネ、ナガエ、オオノミ、コノミ等→岩に付いたアワビなどを剥がす道具で、使う場所により大きさが異なります。
トピックス - 平城京の木簡とノシアワビ
アワビは現在でも高価な食材ですが、日本の古代においては、中国の道教思想の影響を受けて薬として扱われるほどの高級食材で、アワビは、神様への捧げ物として使われる他は、主に天皇や貴族の食材として使用されていました。そのため、奈良・平安時代にはアワビは、国家の重要な租税とされ、館山市内や旧白浜町、旧千倉町周辺からアワビは税として都に納められていました。実際に、「塩見」「白浜」「健田」など、安房地域の地名を記したアワビの荷札木簡が、当時の皇居に当たる平城宮や左大臣をつとめた長屋王の邸宅跡などから出土しています。
奈良時代当時、アワビは生のまま、都まで運べませんでした。木簡に記された内容から推測すると、アワビは短冊条に切られ、それを干した「熨斗アワビ」の形で運ばれることが多かったようです。この熨斗アワビは、現在でもご祝儀に使われる「熨斗袋」にその名残を残しています。
器械潜水
房総の器械潜水は、明治11年に白浜根本村の森精吉郎がアワビ漁などに導入したことに始まり、明治13年(1880)には、金谷村(富津市)にも導入され、急速に普及することになります。しかし、機械潜水は、素潜りとは異なり、長時間水中に滞在でき、両手を自由に使えるため、アワビを幼貝を含めて多量に採取することになり、水産資源の枯渇を招くことになりました。実際、明治18年(1885)に、夷隅郡太東岬沖で発見されたアワビの漁場・機械根では、器械潜水による乱獲が行われ、アワビの枯渇する危険性が出ることになります。そこで、導入後10年を経ない明治19年(1886)には、素潜りによる漁期である4月から10月31日までの間、器械潜水は禁止されることになりました。
機械潜水では、潜水士は「カブト」と呼ばれるヘルメットをかぶり、布にゴムを貼り付けた潜水服を着用して海中に潜りますが、潜水士のヘルメットには空気筒が連結されており、海上の船に据えられた空気ポンプから、この空気筒を通してヘルメット内へと空気が送り込まれることになります。そして、潜水士は、浮力で体が浮き上がらないようにするため、重い潜水靴を履き、胸には鉛製の錘を掛けていました。
潜水士と海上の船との交信は、富津周辺では昭和40年頃に電話が導入されましたが、それまでは船と潜水士を結ぶ命綱で行われており、例えば、命綱を潜水士が7回引いて合図すると、「海底から上にあがる」というような形で連絡を取り合っていたとのことです。
また、器械潜水では水深20m以上の深い海底に潜る場合が多く、水圧の関係から潜水士にとって潜水病は恐ろしい病気でした。静岡県生まれで、明治18年以降、千葉県で潜水夫として活動した丹所春太郎(1866~1911)は、この潜水病の予防と治療法に尽力し、水深の深いところからゆっくりと浮上する「ふかし」と呼ばれる減圧療法を開発したことで知られています。
なお、器械潜水は、現在でも、富津岬周辺では盛んに行われていますが、漁獲する貝類は、アサリを中心として、トリ貝、バカ貝、ミル貝、平貝などとなっています。
器械潜水に使われる道具
空気ポンプ
展示資料は、ハンドルを回すと、クランク状のシフトがシリンダー内のピストンを上下させ、空気を送り出す仕組みで、イギリス式です。この空気ポンプは、明治12年6月にイギリスのシーベ・ゴルマン社(Siebe Gorman &Co. Ltd)から輸入されたもので、器械潜水がアワビ漁に導入された直後に輸入された国内最古の型式を示す歴史的な資料です。明治時代に使用され、このポンプが使用された当時は、潜水士2名、空気筒持1名、その他6名の計9名が1グループで操業し、潜水士は2~3時間交替で、午前8時頃から午後4時ころまで潜水したということです。
ヘルメット
頭にかぶるカブトの部分の下には、潜水服に装着するシコロと呼ばれる部分がつきます。展示資料は、大正時代に東京の東亜潜水株式会社で製作されたもので、銅板を加工して作られています。重さは17㎏で、水深90mまで使用が可能です。オリジナルは、明治時代に横浜のハドソン(Hudson)商会が輸入したものです。
潜水靴
潜水士が履く靴で、海底で足底を保護するため頑丈につくられています。杉板を底板とし、爪先と底に鉄板を付け、踵の周辺にゴムを回しています。1足分の重さは4.7㎏もあります。大正時代に横浜潜水衣具株式会社で製作されたものですが、オリジナルはヘルメット同様、明治時代に横浜のハドソン(Hudson)商会が輸入したものです。
錘
潜水士が海中で浮上しないためにヘルメットのシコロの突起にかけた錘です。潜水靴とともに、大正時代に横浜潜水衣具株式会社で製作されました。