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万祝の風習と南房総の紺屋 |
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万祝の歴史
・万祝の風習と南房総の紺屋 |
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マイワイは、大漁祝いに網主や船主が網子や船子たちに配った晴れ着です。そもそも、大漁時の祝宴をマンイワイといいまして、その引き出物として祝着の反物を贈る風習がありました。そして次第にその祝着そのものをマイワイと呼ぶようになったと言われています。
配られた反物は着物に仕立てられ、みんなお揃いで着て、神社仏閣にお詣りに行ったそうです。
マイワイは、江戸時代後期に房総半島で生まれたと考えられており、青森県から静岡県にかけての太平洋沿岸地域に広がりました。呼び方もマイワイが一般的ですが、東北地方の一部では長バンテン、大漁バンテン、カンバンとも呼ばれています。
大漁祝いにマイワイを配る風習は、明治から大正期をピークに昭和40年代まで続きました。その後は、ジャンバーや作業服等が配られるようになりました。
マイワイは、背と裾部分に背型、腰型と呼ばれる絵柄が描かれています。
背型は、鶴の上に家紋や船印を描き、鶴がくわえる吹き流しに年代、漁場、船名などが記載されています。
腰型は、鶴亀、松竹梅などの縁起のよい絵柄や波、千鳥、漁の様子、漁の対象魚、漁の対象魚を背景に扇、盃の中に漁の対象魚、船印、年代などの文字が描かれています。
マイワイの注文は1回に20〜100反くらいあったそうです。マイワイの生地には三河木綿が用いられ、同じ絵柄を大量に染めるため、型紙を使って制作されました。染め方には、カメにつける「浸し染め」と刷毛で染める「引き染め」の2種類があります。
房総地方では、一般的に紺屋は生活着からあつらえ品のマイワイまであらゆる品の製造販売を行う「万(よろず)染物店」が普通でした。こうした、「万(よろず)染物店」においてもマイワイという一製品の需要が高まると、マイワイ中心の生産体制をとる店が現れるようになりました。しかし、その需要がなくなってくると、その多くがもとの「万(よろず)染物店」に戻るか、廃業・商売替えをするようになりました。
現在、マイワイの営業を手がけているのは、鴨川市横渚の鈴木染物店と角田染物店の2店のみです。
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マンイワイ
マイワイ
マイワイ |
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