南房総富浦総合ガイド資料集

里見氏を訪ねる 宮本城址

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宮本城址のある城山

大津地区に残る宮本城址

宮本城と呼ばれる城址が大津地区にあります。城址に登ってみますと、山頂には屋形のあった平地があり、敵を防ぐため斜面を削り取って作った郭(くるわ)や、尾根続きを遮断した堀があります。また、敵が寄せた時に投げつける岩石も積まれたまま残っています。倉の跡とか軍馬を洗った池の跡とか言い伝えられる所もあります。

築城は二代・成義(しげよし)初代城主は三男・実堯(さねたか)

宮本城は、戦国時代に房総の地に威力をふるった、里見家の二代目宗主に当たる成義が、延徳3年(1491)に稲村城の支城として築いたものです。成義は稲村城に長男の義通(よしみち)を、宮本城の初代城主としては、三男の実堯を住まわせました。

上総方面の動きを意識した防御構造

城域は山頂一帯を主郭として、東に延びた尾根と南北に派生する支尾根に連続して、竪堀(たてぼり)、土橋、堀切を組み合わせ、敵の攻撃を困難にしている技巧的な構造になっています。
特に城の北側の防御に力が注がれているのを見ますと、当時の里見氏が上総方面を意識していたことがよくわかります。

宮本城と里見家内紛・その1 実堯と竹若丸

永正15年(1518)里見家三代目を継いだ義通は、幼い頃から病弱だったため、38歳で世を去ったのですが、その際に義通は病床の枕辺(まくらもと)に、弟の実堯を宮本城から呼び寄せ、5歳の嫡子・竹若丸が成人するまでを条件に国政を託しました。
これが里見一族の間で叔父・甥が争う始まりとなるのですが、義通の死後、事後を託された実堯は稲村城に移って四代目を継ぎ、竹若丸は重臣の中里源太左衛門、本間八右衛門を守役として宮本城に入りました。

宮本城と里見家内紛・その2実堯への不満、竹若丸への期待

宮本城から稲村城に移り、南房総を支配する実堯は宿敵・北条氏と三浦沖の戦い、さらには三浦へ押し入り、鎌倉までも乱入するほどの勢いを見せました。
しかし、数度におよぶ三浦侵入などで局地的な戦いに勝っても、領地が増えませんでしたので、実堯は家臣たちへ公平な恩賞を与えることができませんでした。そのため、参戦した武士の一部に高まった不満は、実堯への不信となって現れました。その上、宮本城の竹若丸が成人したら国政をかえすという兄・義通の遺言を守らぬことが重なったため、16歳で元服し、太郎義豊(たろうよしとよ)となった竹若丸に期待を寄せる一派ができました。

宮本城と里見家内紛・その3義豊、実堯を討つ

竹若丸は、享禄4年(1531)に元服して、里見太郎義豊と名乗る立派な青年武将になりました。
その義豊が天文2年(1533)7月、ひそかに回状を出し、一味の武士たちを集め、父の遺言を守らぬ叔父・実堯の討伐計画を打ち明けました。
その計画に、今にでも攻め込もうと勇む者と、内乱は隣国(相模や下総)から攻められる隙を与えると諌める者とおりましたが、義豊は、「双方の申す所もっともなれど、本望さえ遂げれば後はどのようになれどそれまで。押し寄せて勝負を決しよう」と譲らず、実堯討伐の議がまとまりました。
7月27日夜、宮本城に勢ぞろいした二百余騎の義豊軍は、稲村を目指し押し出しました。
不意を突かれた稲村城の兵たちは大いに狼狽し、甲冑を着る間もありませんでしたが、必死に防戦しました。しかし、ついに敗れ、多くの兵が討ち死にし、これを見た実堯ももはやこれまでと切腹して果てました。実堯、享年50歳でした。

宮本城と里見家内紛・その4義堯(よしたか)の仇討ち

親が討たれれば子が仇を討つ。それが武士の世の習いです。実堯の横死を聞いた義堯は大いに怒り、軍備を整え、義豊を攻め入りました。
その義堯と義豊の両軍が遭遇したのは、天文3年(1534)4月7日の早朝、場所は今も「古戦場」の名が残る、平群(旧富山町)の犬掛だったのです。両軍とも死力を尽くして戦いましたが、義豊軍は寡勢のため敗色濃く、戦いは義堯軍の勝利に終わりました。
戦いに敗れ稲村城に落ちた義豊は、今度は夜討ちで義堯を討ち取ろうと、狐塚(館山市腰越)にあった義堯本陣を襲いましたが、また逆に討ち取られてしまい、稲村城も一気に攻められ、兵は討ち死にし、城も炎上し、義豊は自害を果たしました。
義豊の死によって、稲村城も宮本城も廃城となりました。