南房総富浦総合ガイド資料集

大房の戦跡を探る 太平洋戦争

【要塞化した大房岬】

大房岬は、首都防衛のために江戸時代から重要な役割を果たしてきましたが、特に昭和3年(1928)から帝国陸軍による要塞化工事は、膨大な軍事費と4年の歳月をかけ、さまざまな軍備がされました。
その要塞群は、今でもその跡を残し、現代の私達に戦争という歴史を伝えてくれています。

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●魚雷艇基地跡
コンクリ−ト製のレール跡が館山湾に向かってのびています。

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●砲台跡
帝国海軍の巡洋艦「鞍馬」か「伊吹」のいずれかの副砲、口径20センチカノン砲が配備されていました。現在は砲台部分をレンガで覆っています。

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●発電所施設跡
探照灯には大きな電力が必要になります。ここはそのための発電所でした。50馬力のディーゼルエンジンはドイツ製でした。

【西浜の射的場(射撃訓練場)】

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西浜の射的場跡

多田良西浜海岸の西側の山裾に、太平洋戦争時代に射撃訓練場として使われていた、コンクリートの建造物があります。
正確な年代は不明ですが、昭和10年代に、在郷軍人(退役軍人)が、現役復帰するための射撃訓練施設として、年に数回使われていました。
その訓練の様子は、およそ1メートル四方の紙を貼った丸い標的が数個並べられ、発射の度ごとに、その成績を、棒の先につけた白丸、黒丸を振って知らせていました。
小銃は200m手前に砂を盛り上げた土堤から発射していたのは間違いありませんが、拳銃の発射距離は不明です。訓練の行われたその日は、一日中、大きな銃声が西浜一帯にこだましていました。その翌日は、子ども達がやってきて、標的の裏斜面の土を掘っては、銃弾を掘り出すのが楽しみの一つとなっていました。家に帰って、コンロの炭火の上で、銃弾の中の鉛を溶かし、丸い形にひねった針金を差し込み、ペンダントを作ったのです。
一番人気があったのは、数が少ない小型の拳銃の銃弾でした。
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小銃弾…細長い 画像
拳銃弾…短く、先端が丸く、かわいい姿をしていた

【大房の要塞図面大房の要塞図面】

昭和2年から終戦までの19年間、富浦の海岸一帯は「東京湾要塞地帯」となり、首都の守りの重要地点となりました。
このため、町民は大房付近の漁場には近づくことができず、学童の写生にもいちいち検問許可が必要で、面倒な手続きのうえで、初めて野外写生ができました。
下の図は、戦時中の大房の状況を記した図です。和泉春吉氏、高木角次氏の両氏の証言をもとに作製されたものです。
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