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資料提供:
千葉県立
安房博物館
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南房総各地の花栽培
南房総各地の花栽培

・花卉栽培の歴史
 南房総の花卉栽培の歴史は、安房花卉園芸組合連合会創立五十周年記念誌『房州の花』によれば「伝説によると南北朝の時代、第三十五代花園天皇が姫を京都より逃避させるため淡路島に船出させましたが、途中海難にあい太平洋に流され、今の南房総市和田町花園の木花台(ぼっけだい)に船が打ち上げられました。このとき、姫は黄色の花の咲く木を持っておられ、これを村人達に分け与えたのが花づくりの始まりだといわれています。」と紹介されており、和田町花園の諏訪神社境内に姫を祀ったという小祠『子の神』があります。
 また、江戸時代の中頃江戸の武家屋敷や町屋に房州から元名水仙が販売されていたという記録があり、寛政4年(1792)11月には老中松平定信が安房の国を巡視した祭の紀行文「狗日記」に「保田といふあたりより水仙いとおほく咲きたり那古寺にやすらふ頃、日の入りて空も浪も紅にそめたるが、白く三日月のみ見ゆるに黒く富士の高嶺のそびへれるぞ、つかれしことも忘れにけり、歌よみしも亦忘れつ、鋸山に宿る。風あらき野じまが崎お海づらは月と花とのやどりなりけり」と記され、保田元名あたりで当時から水仙が多く栽培されていたことが窺われます。
 明治時代になると、丸山町真野地区で明治19年に石井辰治と渡辺文治の両氏がテッポウユリの木子(むかご)を購入して球根切花栽培や輸出用の球根栽培を行い始めた。また、富浦町では明治35年にボタンを栽培してびわ問屋に出荷した等の記録が残されています。その後、富浦町の龍門覚三郎・金木長次郎・柴山佐吉、丸山町の石井広海・座間寛大衛門、和田町の間宮七郎平、白浜町の早川うめ・木曽博、富山町の川名栄・高梨干治など房総各地に花卉栽培の先駆者が現れてきました。
 戦時中は一時花卉生産は中断されていたが戦後まもなく再開され、大消費地東京を控えた地の利と温暖な気候条件とが相まって栽培面積が増え続けています。また、近年では、消費者ニーズにそった観光花園等切り花栽培から始まった花卉栽培も様々な形態のものへと広がっています。

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