南房総富浦総合ガイド資料集

里見氏を訪ねる 岡本城址

里見七代・義弘が修築した岡本城

「里見公園」と呼ばれている岡本城址へ、最初に城が築かれたのはいつの頃か不明ですが、一般的に「岡本城」と言う名称で語り伝えられる城は、元亀(げんき)元年(1570)に戦国大名の里見義弘(七代)が、犬猿の仲だった小田原の北条氏に備えるため、時の城主であった岡本随縁斉(おかもとずいえんさい)から譲り受けて修築し、元亀3年(1572)、水軍の拠点として完成させたといいます。義弘は城主として、子(弟説もあり)の義頼(八代)を住まわせました。

南手城(里見公園)・北手城(聖山)

岡本城址は、豊岡地区にありますが、天然の良港を持つ水軍の基地で、大手は西海岸から登り、山上のところどころに平地があって、南手城(みなみてじろ・今の里見公園)、北手城(きたてじろ・今の聖山)の名を残しています。
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枡ケ池のある聖山

文字どおりの「要害」の地

標高約50mの山頂の所々に平地があり、周囲には天然の岩石を削って作った外郭や堀、切り通しが残っており、文字どおりの「要害」の地と言えます。
城主の館は、南面の山腹(現在の東京学芸大学附属大泉学園寮の付近)にありました。また、城主の奥方の館は、東方の聖山山頂にありました。

全国的にも珍しい城井戸「枡ケ池」

聖山の北東の山腹には、「枡ケ池」という十メートル四方の岩を掘った池があります。どんな干天にも涸れることはないので、城の有事の飲料水に利用したものと考えられます。また、尾根にあるため敵の進入を防ぐ堀であったという説もあります。
この岩盤を掘り込んだ水掘は、城の井戸を兼ねた、全国的にも類例のない珍しい施設であるとされています。

◇枡ケ池の白い手
まだ暮れたばかりの山道を提灯の灯りを頼りに、長い竹竿を担いで歩いている人たちがいます。誰も口を利く人はいません。竹竿の先には何か物を引っかける鉤が付いています。
実はこの人たちは、岡本城の枡ケ池に自殺した若い嫁さんを、引き上げに向かっているのです。枡ケ池は戦国時代に里見の兵たちが飲み水に溜めたものですから、今でも地元の人たちは、汚したりしないために、「祟りのある魔の池」と言って人を近寄らせないのですが、ある頃はその池が自殺の名所になっていたのです。
ようやく枡ケ池にたどりついた人たちは、担いできた竹竿で池をかき回し、冷たくなった嫁さんを引き上げると、また押し黙ったまま家路につきました。ところが枡ケ池から4〜5メートル離れたと思われるころ、なぜか提灯の灯りが消えてしまったのです。
そのときでした。池の中から真っ白な長い手が伸びてきて、死んでいる嫁さんを取り戻したのです。恐ろしいことに、その白い手には夜目にもはっきりと、うろこが付いているのが見えたのです。
明治の頃にあった話です。

義頼と梅王丸の内乱

七代・義弘は、安房を義頼に与え岡本城に居城させ、義頼の弟・梅王丸に上総の国を与え佐貫城に居城させることを約束していました。ところが、義頼はこの分割相続を不満に思い、父義弘と義頼の仲は不和となり、義弘が逝去した後、梅王丸と家督・領土をめぐって対立をしました。
この内乱は、義頼が上総を制圧し、梅王丸を岡本城の聖山に幽閉しました。梅王丸は強制的に剃髪され、名を淳泰(じゅんたい)と改めました。

岡本城から館山城へ

八代・義頼の死後、岡本城の城主は九代・義康へと受け継がれました。
時の天下人は豊臣秀吉でしたが、秀吉は「惣無事令(そうぶじれい)」という、大名間の武力での戦いを禁止する法令や「海賊停止令」により海賊行為を禁圧しました。
岡本城は、軍事力で周辺の勢力から土地を奪ったり、外敵を防いだり、あるいは海上を航行する船を脅して、金品を取り上げるなどという戦国時代には適当な城でしたが、秀吉により大名独自の侵略が禁止されたので、経済力を強めなければ領国の支配を維持できなくなりました。
このため、義康は、軍事的にも、また経済的にも館山が最適だと考え、城を移しました。
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岡本城主・里見義頼の墓

義頼の墓 〜光厳寺(こうごんじ)〜

義頼は、里見水軍の根拠地・岡本城を守り、父義弘の死後に起きた梅王丸との里見家相続争いの内紛に勝利すると、領国すべてを手中にし、里見八代目を継ぎました。
その後、義頼は岡本城を里見の居城と定め、南総に武威を振るいましたが、天正15年(1587)に40歳で病死しました。
義頼の眠る墓塔(宝筴印塔・ほうきょういんとう)は、青木地区の金竜山光厳寺(きんりゅうざんこうごんじ)にあります。墓塔は室町時代末期の特徴をよく表しており、歴史的にも、文化財的にも一級のものです。
法名を、「大勢院殿勝岩泰英大居士(たいせいいんでんしょうがんたいえいだいこじ)と言います。

青岳尼(しょうがくに)供養塔 〜興禅寺(こうぜんじ)〜

房州の発展を考え、岡本城を築城(修築)した里見七代・義弘の正室青岳尼(しょうがくに)の供養塔が原岡地区の海恵山興禅寺(かいけいざんこうぜんじ)にあります。
青岳尼は、鎌倉尼五山の筆頭・太平寺の住職でしたが、実は、小弓御所(下総浜野)・足利義明の娘で、少女時代に北条氏との下総国府台(市川)の戦に敗れ遺児となりました。その時に小弓から家臣に伴われて逃れ、一時房州の里見義堯(義弘の父)のもとに、身を寄せていたことがあったため、義弘とは幼なじみの仲でした。
その義弘が、三浦半島に攻め入った時、鎌倉まで侵入し、太平寺住職であった青岳尼を強引に連れ帰り、還俗させ正室としました。その後、仲睦まじく暮らし、天正4年(1576)に若くしてこの世を去ったとされていますが、本名も死亡年月も不明です。
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青岳尼の供養塔