南房総富浦総合ガイド資料集

堂山とその周辺を歩く

【貝化石】

岡本川右岸一帯の地表下3メートル辺りに、青い粘土層があり、海産貝化石を含んでいます。八束小学校近くまで達していることが確認されています。また、堂山山麓には縄文海進当時(紀元前7〜6千年頃)の汀線とされる砂の層があり、平成12年にサンゴ化石(キクメイシ)が出土しています。

【八坂神社】

深名字森台に鎮座します。祭神は素戔鳴尊(スサノオノミコト)です。深名村の修験仙寿院(シュゲンセンジュイン)が、鬼門の護りとして、京都祇園の八坂神社を勧請したとの言い伝えがあります。向拝の竜の彫刻は、武志伊八郎信秘の作です。
「八坂神社」の名は、明治政府による「神仏判然令」以後で、それまでは「牛頭天王」と称していたようです。
社殿裏の、水田に囲まれた藪を「隠居の森」といいます。いつの頃か、社の前を通る馬が急に暴れ出したり、神輿がお浜出すると急に時化にとなり、沖の船を覆すなどのことが重なったので、金の御幣(ゴヘイ)に御霊(ミタマ)を押し込め、ここへ埋めたので、この名がついたといわれています。
なお、仙寿院は明治時代に全焼し、今に伝わるものは何もありません。
*勧請:神仏の分霊を他の場所に移しまつること。

【石灯籠】

深名字仲尾川にあります。棹石(サオイシ)に「秋葉山大権現」「金比羅大権現」「津島牛頭大王」「文化十五戌寅四月吉日」台に「當組講中」の銘文があります。
基礎部分は、もとは石積みでしたが、風化のため改修しました。現在のそれは、八坂神社の昔の鳥居の基礎を使用したものです。
山岸にも同じ型式のものがあるので、これによって昔日の姿を偲ぶことができます。
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約190年前に建てられた石灯籠

【二位山(にいやま)】

堂山と南麓が繋がり、麓に西行寺があります。
この山には、明治時代末から大正にかけて、板垣退助・犬養木堂と並び、「政界の三羽烏」と呼ばれた大石正己の別荘があったので、地元では「大石さんの山」と親しみを込めて呼びますが、最近は「正義会の山」と呼ぶ人も多いです。
正しい名称はほとんど知られていません。
斉藤東彎著「安房志」には、“二井山”とあり、船形城主・安西氏の城跡という伝承をしるしています。

【井戸田】

深名字駒磯。「安房の伝説」には「江戸田」としてあります。
三方が山で囲まれているため、最上段の田に湧水があり、この峡(はざま)では、灌漑用水として重宝していました。
「安房志」には、『二井(じせい)山の西方の田の中に城の井戸だという深いところがあり、常に水が絶えぬ』と記しています。
昭和60年頃の農業基盤整備事業により、昔日の面影が全く消滅してしまいましたが、湧水の痕跡は残っていて、今なお水がしみ出しています。
この場所が、大房岬の弁天様から那古の弁天様へ、お使いをする天狗の息継ぎの場所だったとも言われています。

【三角点】

三等三角点。名称は堂山。三角測量法により距離を測るための起点としています。隣接する三角点は大房岬や当城などがあります。
参考までに、高さを測る基準点は「水準点」と言い、旧八束村役場の跡にあります。

【東京都有地境界標】

東京都立船形学園の用地であることを示します。
東京都立船形学園の前身は、明治42年に開設された身体虚弱児童の収容施設である東京市養育院安房支院です。当時の養育院長は、後に実業家であり、福祉事業にも尽くした渋沢栄一でした。
その頃の安房地方は、病気療養地から観光地(避暑避寒地)への性格転換期に当たり、病人のための施設受け入れには、どこも消極的だった中で、船形町は土地を提供して、これを誘致しました。船形町としては、児童150人と職員とその家族が転入することになるので、人口増加による魚の消費拡大を期待したものだといいます。
渋沢栄一は、この一件で船形町に好意を寄せ、後の鉄道省による北条線敷設に際し、停車場を現在の位置へ設置する運動に力添えをしてくれたということです。

【採石場跡】

館山市野房に岡崎姓を名乗る石屋さんがあって、昭和28年まで石を切り出していました(現在は誰もいません)。石は、主に建物の土台に使われました。