南房総富浦総合ガイド資料集

日蓮上人の足跡を訪ねる 法華崎から七面山

【弘法大師(空海・真言宗)の石造】

「風邪大師」と呼ばれ、熱心に信仰すれば万病の元である風邪をひかずに過ごせると言われていました。1日と15日の縁日には、たくさんの人がお参りに来て、ずいぶん賑わったそうです。

【小三郎坂】

建長5年の5月ここから南無谷に通じる急な坂道を、粗末な身なりの僧が一人、あえぎながら登っていました。
「もしもし、お坊さん、だいぶお疲れのようですね。わしの背にお乗りなせえ。」
と那古に住む小三郎という漁師が声を掛けました。
「私は日蓮と申すものです。鎌倉に渡るために、通りかかりましたが難儀しています。ではお願い申そうか。」
その小三郎の親切な行いを長く語り伝えるために、この坂道を「小三郎坂」と呼ぶようになったということです。でも今は、ご覧のとおり藪となり通ることが出来ません。

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袈裟掛けの松の手前に造られた富士山信仰の「浅間様」

【浅間講】

浅間講です。江戸時代後期から各地に「浅間講」という富士山信仰が生まれ、富士詣でが盛んになりました。富浦町内にもたくさんの講がありましたが、豊岡の講は特に熱心だったということです。
富士詣では、講仲間全員が行くわけにはいかず、お金を積み立てて代参者が詣でました。
代参者が無事に帰ってくると、さっそく「砂払い」という清めの酒宴が開かれ、講仲間にはそれが楽しみでした。

【袈裟掛けの松】

ここに袈裟掛けの松がありましたが、今はこの石碑(明治31年)しか残っていません。
建長5年日蓮聖人は法華経を広めるために、鎌倉に渡ろうとこの地に来ましたが、風波が激しく渡航することができなかったので、日蓮はここで海が静まるように祈祷なさいました。
その時、ここに生えていた小さな松に袈裟を掛けたということです。
やがて、法力により風波の静まり日蓮は鎌倉目指して渡っていきましたが、歳月は流れ日蓮が袈裟を掛けた松は立派な大木となりました。袈裟掛けの松として親しまれていましたが、松くい虫の猛威にはかないませんでした。

【妙福寺】

日蓮聖人ゆかりの妙福寺です。
建長5年日蓮は清澄山を立ち鎌倉に向う途中富浦に来た時、暴風雨にあってしまいました。
この話が先ほどの袈裟掛けの松の話になる訳ですが、この時泉澤権頭太郎(ごんのかみたろう)の家に泊まり、無事に鎌倉に行くことができました。
その時、権頭太郎の老母が日蓮の衣が汚れているのを見て、その衣を洗濯しました。日蓮は着替えが無く裸のまま読経を続けました。その姿を弟子の日法に彫らせたのが、日蓮の裸像で現在市指定文化財となっています。今は紫の衣を着け、年2回お召し替えをします。
また、権頭太郎が身延山に日蓮を訪ねた時に、裸像とともに日蓮聖人の真筆を授かっています。この真筆には証明書もあり、これも市の指定文化財になっています。

【七面山】

ここ七面山には、日蓮宗の守護神・七面大天女様が祀られています。七面大天女様はどんな神かと言いますと、福徳を授ける吉祥天の生まれ変りですからたいそうな美人で、鬼門の一方だけを閉じて七面を開く神です。正体がヘビだと言われ、幾つかの伝説があります。
きれいな衣を纏っていますが、日蓮の裸像と同じく年2回のお召し替え・衣替えをします。