南房総富浦総合ガイド資料集

朱の伝説と物語を求めて

我が国の古代の人たちにとって、朱(丹)は、黄金や鉄とともに貴重な宝でした。
朱とは黄味を帯びた赤色をしており、縄文時代には、土器や顔にも塗りましたが、仏教が中国大陸から入ってきますと、寺院の柱や壁、橋などの塗料として大量に使われるようになりました。
その朱は、「朱砂(すさ)」とか「辰砂(しんさ)」という赤い土に含まれており、この富浦の丹生や手取地区にも層になり、たくさんありましたので、古代に日本全国を巡り、朱を採取するのを職とした丹生氏と呼ばれる人たちが現れて、朱を採取したのです。
当時の文献などは何一つありませんが、現在残っている地名や伝説などから、それを知ることができます。
丹とは赤い土の意味があり、丹生とは、もちろん丹(朱)が産出されるところのことです。丹生や手取の地域には、照尾(てるお)、谷掘(やつぼり)、焼山(やけやま)などの地名が存在しますが、みなそれぞれ朱の採取と深い関係があるのです。

◇丹の産地

青丹によし 平城の都は咲く花の
          匂うが如く今盛りなり

遠い天平の昔、大いに栄える奈良の都をたたえて作られた有名な歌ですが、この歌に詠まれている丹(朱)は建築物などに使う塗料で、古代には貴重な宝でした。
丹は丹生氏と呼ばれる氏族が、全国で産地を見つけながら採取し、都に送っていたのですが、八束の丹生地区や手取地区もその産地の一つだったのです。その訳は、丹生に丹の含まれた朱砂がたくさんあったからです。
丹を含む朱砂とは、硫黄分の湧き出る地域の地下に水銀があった場合、その水銀がガス状で岩石の割れ目から噴き出し、地表で硫黄と化合、土や岩を真っ赤にしたものなのです。その朱砂を熱して蒸留しますと、丹と水銀が得られ、丹は寺院などの彩色に、水銀は仏像などの鍍金(メッキ)に使われていました。
朱砂を採取する場合、露天掘りを「手取」堅坑や横坑をつくり掘るのを「谷掘」と言い、朱砂を熱した山は「焼山」と言いました。八束で丹を採取したのは千年も前のことですが、「丹生、手取、谷掘、焼山」などが地名となり、今も残っているのは驚いた話です。なお丹を採取した丹生氏の長の名は、マナコの長者と言い、今の手取地区の神社の社名、「聖真名子」になっています。

聖真名子神社(ひじりまなこじんじゃ)

手取に「聖真名子」と呼ばれる神社があります。小さな社ですが、拝殿の中には旧社名「聖心子権現」の額や、江戸から明治までの絵馬がたくさん掛かっており、昔から地元の人たちに崇敬されていたことが分かります。
ところで「真名子」と呼ぶ社名ですが珍しいですね。安房国の神社の中にはありません。社名の文字から受ける感じでは優美な女性の名のようですが、実は遠い奈良時代に今の手取や丹生地区で丹(朱)と水銀を採取した丹生氏の首長の名です。首長は「マナコの長者」と呼ばれていました。
奈良時代には丹は寺院などの彩色に、水銀は仏像の鍍金(メッキ)のため、なくてはならないものでしたから、どちらも黄金と同じくらい価値があり、それらを採取して売り渡すマナコの長者は大金持ちだったのです。
なお手取と隣接する大津の城山に、

「朝日さす 夕日輝く 諸の木の下に
       黄金千ばい 朱がめ千ばい」

という、戦国大名・里見義豊の埋蔵金の歌が伝えられていますが、この歌も実は、丹を採取したマナコの長者を称える歌なのです。
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手取地区の聖真名子神社 丹を採取していた一族・丹生氏の首長の名を「マナコ」と呼ぶ