富浦のビワの歴史
富浦のビワ生産のはじまり
約250年前ごろからです。 ビワの生産地としては北限(ほくげん)に近く寒害を受けやすく生産は大変ですが、富浦の先人(せんじん)たちの苦労と工夫によって、日本一のビワの町になりました。

迷信(めいしん)で栽培(さいばい)する人が増えない
ビワの木には「ビワをつくるとその人は若くして死んでしまう」などの迷信(めいしん)があり、ビワを作る人は中々増えませんでした。

富浦で作られる理由
1.東京に近いから 東京(江戸)は多くの商品が売り買いされています。ビワも東京へ運べば多くの利益(りえき)が出ます。ビワは傷つきやすいので、東京から近い富浦は有利だったのです。
2.平地が少ない 富浦は平地が少なく、特にこれといった作物を作れる状況ではありませんでした。
3.全国的に有利 ほかの地域ではあまり生産しておらず、品種(ひんしゅ)や出荷時期などがちがったため、全国的にも有利に生産できました。

さかんになった理由
1.栽培(さいばい)方法の改良 ビワの木を元気よく育て、大きいビワの品種を導入し、おいしいビワを作る技術を取り入れてきました。
2.輸送(ゆそう)方法の改良 早い船を使うなどして、東京(江戸)まで早く新せんなビワを届けることができるようになりました。
3.品種改良(ひんしゅかいりょう) 「田中」などの良い品種(ひんしゅ)を導入することによって、大きくて形が良くおいしいビワを作れるようになりました。

「献上(けんじょう)ビワ」が始まります
天皇(てんのう)、皇后(こうごう)両陛下(りょうへいか)及び皇族の方々などにビワをお贈りする行事(ぎょうじ)がビワの献上(けんじょう)です。富浦でビワ生産がさかんになり、おいしいビワが作れるようになったため、「献上(けんじょう)ビワ」が始まりました。明治42年6月20日のことでした。富浦のビワがすぐれていることの証明でもあります。右の写真は昭和16年6月10日のものです。

(ふくろ)かけで品質が良くなる
それまで、ビワには袋(ふくろ)をかけていませんでした。しかし、大正4年に袋(ふくろ)かけが始まりました。雪、風、雨、太陽の強い光などの害を予防し、虫もつきにくいので、ビワの品質が良くなりました。

化粧箱(けしょうばこ)
ビワは樽(たる)などで東京まで運んでいましたが、大正9年から化粧箱(けしょうばこ)が使われ始めました。この箱によって出荷が便利になりました。

ビワを大きく育てる
長崎県(ながさきけん)のビワは、東京市場でも人気でした。そこで、富浦の人たちはビワを大きく育て、おくり物用にもできるように工夫しました。また、出荷する時期がちがうため、お互いに競合(きょうごう)することがさけられたのです。

人手不足
ビワ生産のために多くの人が働いていましたが、昭和40年代からは人手不足になってきました。そこでケーブル、草刈機(くさかりき)、モノレールを使いはじめました。また、道路をよくすることでトラックなどが使えるようになりました。

ハウスビワ
平地でもビワ生産ができると、作業が楽になります。また、ハウスで栽培することで寒害(かんがい)などにもあわないのでビワがだめになってしまうことが無いのです。さらに、早い時期に出荷すると、高く売れるので農家は助かります。現在はハウスビワがだんだんとさかんになってきています。しかし、ハウスの中が熱くなりすぎるとビワがだめになってしまうので気をつけなくてはいけません。
参考資料・出展
 びわ 房州ビワを中心とした栽培法  中井 滋郎著 株式会社とみうら発行
 富浦のびわ 富浦町長 遠藤 一郎発行